美術館について

主な所蔵品のご紹介

朝涼 あさすず
大正14年(1925) 絹本着色・軸 219.0 × 83.5cm 第6回帝国美術院美術展覧会
政府が主催する帝展への出品作。清方が制作に迷いを感じていた時、この作品に至って「全く自分を取り戻した」と自ら語る、清方の代表作のひとつ。 清方の別荘があった金沢八景(現・神奈川県横浜市金沢区)の生活にもとづきます。残月が空に浮かぶ早朝に、長女と連れ立って歩くことを習慣としていました。娘の背後には、稲田が続き、蓮の花が咲いています。


一葉女史の墓 いちようじょしのはか
明治35年(1902) 絹本着色・軸 128.7 × 71.0cm 烏合会第5回展
清方は、泉鏡花の随筆「一葉の墓」(明治 33 年 (1900 年 ) ・文芸雑誌『新小説』掲載)に促されて、当時築地本願寺にあった樋口家の墓に詣でたことから着想を得ました。 持参した素描帳の余白には「墓標の高さ、わが丈にして乳のあたりまで」と記しています。樋口一葉の著書『たけくらべ』の主人公美登利(みどり)が、樋口家の墓にもたれる姿は、この時のスケッチによります。 美登利が手にしている水仙の作り花は、小説の最終章で、恋しく思っていた信如(しんにょ)が修行に発つ日の朝、格子に挿されていたものです。


朝夕安居 ちょうせきあんきょ
昭和 23 年(1948) 紙本着色・画巻 朝 42.2 × 124.0cm/
昼 42.2 × 60.5cm/
夕 42.2 × 158.6cm
第 4 回日本美術展覧会
明治二十年代、まだ開国して間もない江戸の風情が色濃く残る東京の穏やかな市井(しせい)の暮らしを題材にしました。それは、清方が多感な少年時代にあたり、夏の生活や風物を朝、昼、夕の三つの画面を右側から左へ時間を追って絵巻物に仕立てています。 朝 早朝の長屋の光景です。画面右側には、帆船(はんせん)のマストが見えます。右端の新聞配達の少年が抱えている『やまと新聞』は、清方の父が経営していました。中央では、煮豆屋が惣菜を売りに来ており、左端では井戸を囲み世間ばなしをしながら、身支度を調えています。朝一番の仕事である水汲みの姿も見られます。 昼 百日紅(さるすべり)の木陰で、荷を下ろした行商の風鈴売りが一服しています。荷にはたくさんの風鈴や飾り提灯などが吊されています。 夕 画面右側の木槿(むくげ)の咲く庭の蔭に雨戸を立てかけて行水(ぎょうずい)をする女性や、天空に眉月が懸かり、蝙蝠(こうもり)が飛んでいる柳の側にある戸口でランプの火屋(ほや)掃除をしている女性の姿が描かれています。    左側は、「むぎゆ」と書かれた辻茶屋で涼を楽しむ人々の光景です。


にごりえ
昭和9年(1934) 紙本墨画淡彩・台紙 (各)26.2 × 35.5cm 六潮会第3回展
〔あらすじ〕
お力は、銘酒屋「菊の井」の一枚看板で、男ぶりも気前も良い結城朝之助(ゆうきとものすけ)に惹かれてゆきます。お力のために身を持ち崩した源七が訪ねて来ても、会おうともしませんでした。お力が源七の息子に与えたカステラを、妻のお初が投げ捨てたことからいさかいになり、源七は妻子を家から追い出してしまいます。源七は湯屋から帰るお力を切り殺して、自分も切腹して果てました。


樋口一葉の小説『にごりえ』(明治28年)を読み返すうち、いつしか宿った幻をそのまま絵筆に託して作品に仕上げています。 「小説にごりえを画にして」という序文と15枚の絵からなる作品です。清方は少年時代から、一葉の『たけくらべ』や『にごりえ』などを、いくたびとなく読み返していました。著作物のみならず、一葉に対しても憧れの念を抱いていました。画家として修行を積んでいた頃から晩年の亡くなる3年程前まで、一葉や小説を題材にした作品を幾つも制作しています。(※上記作品は全15図のうち第2図)


註文帖 ちゅうもんちょう
昭和2年(1927) 紙本墨画淡彩・台紙 (各)25.1 × 34.0cm 郷土会第12回展
〔あらすじ〕
明治維新の後、元旗本の娘お縫は遊女となりました。19日に、知り合った男と心中を図りますが、男のみが助かります。時は流れ、剃刀(かみそり)による不吉な事件が廓(くるわ)で度々起こり、研ぎ屋の五助は忌日として恐れていました。しかし、普段なら仕事をしない19日に、紅梅屋敷のお若の剃刀を研いだのをきっかけに、お若にお縫の霊がのり移り、深夜雪道を迷わせて屋敷にやってきた脇屋欽之助(実は心中で生き残った男の甥)を死に誘います。
【卓上芸術】
清方は『朝夕安居』など、「人交(ま)ぜもせず卓上に伸べて、その細かい筆使いを味わう芸術」を【卓上芸術】と名付けています。【卓上芸術】には、《朝夕安居》の他に、《にごりえ》《註文帖》などの連作や挿絵、口絵、画集なども含まれます。


泉鏡花の小説『註文帳』(明治34年)をもとに、清方は13枚からなる作品を制作しました。
明治34年、清方は知人を介して小説家の泉鏡花と知り合い、以降「鏡花作清方ゑがく」と呼ばれる書籍や雑誌の口絵、挿絵などを世に送り出しています。
二人の交流は、鏡花が亡くなる昭和14年まで続きました。(※上記作品は全13図のうち第4図)