鏑木清方の歩み
晩年の鏑木清方
鎌倉雪ノ下の自宅にて
撮影:片山 攝三
- 和暦(西暦)
- 満年齢
- 事項
- 明治11年(1878)
- 8月31日、東京神田に生まれる。本名健一。父は『東京日日新聞』(現・毎日新聞)の創始者の一人で、戯作や劇評も手がけた優れた文人の條野採菊(じょうの さいぎく)。父の影響を受け、幼い頃から文芸に親しんで育つ。
- 明治24年(1891)
- 13
- 父や三遊亭圓朝(さんゆうてい えんちょう)の勧めもあり、挿絵画家を目指し、水野年方(みずの としかた)に入門。
- 明治26年(1893)
- 15
- 師の年方から「淸方」の号を授けられる。
- 明治27年(1894)
- 16
- 父が社長を務める『やまと新聞』の挿絵を担当。
- 明治30年(1897)
- 19
- 『東北新聞』の挿絵を担当し、独り立ちする。
- 明治34年(1901)
- 23
- 「烏合会(うごうかい)」を結成。泉鏡花著『三枚續(さんまいつづき)』の口絵と装幀を依頼され、鏡花と親交を結ぶ。この頃から日本画への関心を深め、特に文学から題材を得た作品を多く発表しはじめる。
- 明治36年(1903)
- 25
- 文芸界をリードした雑誌『文藝倶樂部(ぶんげいくらぶ)』の口絵を飾るようになり、挿絵作家としての地歩を固める。
- 大正4年(1915)
- 37
- 伊東深水、寺島紫明ら清方の門下生により、『郷土会』が結成される。第9回文展で≪霽(は)れゆく村雨≫が最高賞を受賞。
- 大正5年(1916)
- 38
- 平福百穂(ひらふく ひゃくすい)、松岡映丘(まつおか えいきゅう)、結城素明(ゆうき そめい)、吉川霊華(きっかわ れいか)と共に「金鈴社(きんれいしゃ)」を結成。
- 大正8年(1919)
- 41
- 第1回帝国美術院展(帝展)の審査員を務める。
- 昭和2年(1927)
- 49
- 第8回帝展に≪築地明石町(つきじあかしちょう)≫を出品。帝国美術院賞を受賞。名実ともに清方の名が世に知らしめられる。
- 昭和5年(1930)
- 52
- 第11回帝展に≪三遊亭圓朝像≫を出品。この作品は、平成15(2003)年、重要文化財に指定される。
- 昭和12年(1937)
- 59
- 帝国芸術院設置に伴い、帝国芸術院会員となる。
- 昭和19年(1944)
- 66
- 帝室技芸員に任命される。
- 昭和21年(1946)
- 68
- 第1回日本美術展覧会(日展)の審査員を務める。戦渦で牛込矢來町の自宅を焼失していたため、疎開先の御殿場から鎌倉材木座に転居。
- 昭和29年(1954)
- 76
- 文化勲章を受章する。鎌倉雪ノ下に転居。
- 昭和47年(1972)
- 3月2日、鎌倉雪ノ下にて逝去。享年93。