鎌倉と日本画家

鎌倉と近現代の日本画家たち

 鎌倉は、源頼朝(1147-1199)が幕府を開き、武家政治の都として繁栄したことで知られています。また、鎌倉時代から禅宗の中心地として禅文化が発信されている地でもあります。
 江戸時代の半ば、庶民の旅行が盛んになると大山詣でや江ノ島詣でとともに、寺社仏閣の多い鎌倉は物見遊山で賑わいました。
 明治に入ると衛生や健康増進意識の高まりから、鎌倉の自然豊かで温暖な気候が着目され、保養地として脚光を浴びます。明治22年(1889)に大船と横須賀間に横須賀線が開通すると、鎌倉と東京間は約2時間ほどとなり交通の便の良さから別荘地、観光地として賑わいはじめました。明治43年(1910)に江ノ島電鉄の藤沢と鎌倉間が開通し、さらに観光地化が進みました。

 近代の画家たちも、海と山が近く自然豊かな鎌倉に魅了され訪れています。
 洋画家では黒田清輝(1866-1924)が明治末、材木座に別荘を構え、付近の風景に取材した作品を
残しています。久米桂一郎(1866-1934)など清輝の友人知人の画家たちも訪れました。大正末には
岸田劉生(1891-1929)が、藤沢の鵠沼から鎌倉の長谷に移り住み、終生当地で暮らしました。
 日本画家では、昭和13年(1938)に小倉遊亀(1895-2000)が北鎌倉へ転居し、翌14年(1939)には前田青邨(1885-1977)が鶴見から静かな地を求め北鎌倉・山ノ内へ移り住みます。青邨門下では、守屋多々志(1912-2003)が翌年同じく山ノ内に居を構え、26年(1951)に太田聴雨(1896-1958)が同地に移り住み、やがて47年(1972)に平山郁夫(1930-2009)が二階堂に画室を構え、終生暮らしました。

 鏑木清方(1878-1972)は、戦後の昭和21年(1946)に疎開先の御殿場から鎌倉の材木座へ移り
住みます。そして清方門下の伊東深水(1898-1972)も24年(1949)に疎開先の小諸から鎌倉・
山ノ内へ居を移し、月白山荘と名付けた画室で制作活動を行いました。深水は、材木座の清方を訪れ、随筆家の一面をもつ師の姿を写し作品に残しています。
 清方は29年(1954)、76歳で雪ノ下に居を構え、47年(1972)に93歳で亡くなるまでをこの地で
過ごしました。「内に居れば閑靜で、戸外へ出れば賑やかなところ」を好んだ清方にとり、雪ノ下は
まさに理想の地でした。

 鎌倉は現代も変わらず、若宮大路や小町通り、鎌倉街道など賑やかな通りがある一方、一歩入ると
静かな古都の風情が漂います。
 近代の画家たちが愛した自然豊かな鎌倉の街並みを、美術鑑賞とともにぜひお楽しみください。
伊東深水
伊東深水、師・清方の姿を写生する。
1951年頃 鎌倉材木座の清方邸にて
提供:勝田一正氏
清方先生像
清方先生像(下絵) 昭和26年(1951) 当館蔵

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